やっぱりBOOK OFFは神だ!

最近はもっぱら併読になってきた。環境保護関連の本を少し前まで中心に読んでいたが、途中で経済や日本悲観論などに興味を引かれ、気づいたら全部を同時に読んでいたのだ。でもこっちの方が一つの本に集中するよりいいことに気づいた。ある程度の区切りでほかの本に切り替えるのはメリハリができて頭に記憶が残りやすい。ダラダラと読まなくてすむのだ。

ただ積読のリスクが大いにあるのは否めない。この前、BOOK OFFに行ったのだが興味のある本がたくさんあったので数冊買ってしまった。読まない本も多少はありそうだ。

「なら買うなよ」といわれそうだが値段の安さを前に、俺の場合それは出来ないのだ。ほしい本、ほしい本、どれも105円で買えてしまう。10冊買ってもたったの1050円だ。だから結果的に2、3冊読まない本があったとしても個人的には問題はない。むしろ、読まないかもしれないと分かっていたとしてもほしいものはとりあえず買っておきたいのだ。つまり、せっかく興味のわいた本をお金がもったいないとあきらめてしまうのは、むしろそのことが本質的にもったいないと思うのだ。知識が増えて困ることはない。だからどんどん今興味のある分野をどんどん知っておきたいのだ。

しかし、貧乏人にこんな贅沢な買い方が出来るのはすごいと思う。中古といういわくつきにさえ満足出来れば本はものすごく安く買えるのだ。また金銭面についていえば、無料にすることだってできる。図書館を利用すればいいのだ。本という物自体がいらないのならこれを利用しないてはない

だが、著者に申し訳ない気がしないでもない。普通、本を読むのならその対価を払わなければならないだろう。つまり著者にお金を払う必要あるだろう。そうでないと、著者はタダで読まれたことになるからだ。本に値段という価値がつけられてある以上タダで読むのは万引きと同じようなものだ。それを俺は地で行ってるのである。

著者に「申し訳ないけどあなたの本“タダ”で読んでますよ」なんて言ったらなんて言い返されるのだろうか。人によって違うだろうが想像では、殴られる、金を請求される、感想を言わされる、読んだことを喜ばれる、人生に活かせと励まされる、とこんな感じだろうか。

まず、殴られる。これは理不尽だ。俺は世に従い正当な方法で著者の本を読んだにすぎない。殴られる覚えなどないのだ。もしかすると、タダで読まれたこと以上に、悪意に満ちた俺のこの発言にかっとなったのかもしれないが、どちらにしても暴力は言語道断だ。(確かに、自分が著者なら気持ちはわかるがw)

金を請求される。これはもう潔く払うしかない。悪い本の著者なら最悪だ。しかし逆にいい著者ならむしろ定価の額を数倍上積みしたいくらいかもしれない。

感想を言わされる。これはこちら読者としても喜んで言わせてもらおうと思う。書き手としても読み手の感想は非常に気になるものだろう。両者ともプラスだ。

読んだことを喜ばれる。これは読者は至れり尽くせりだろう。タダで読めたうえにそのことに喜んでもらえるのだ。ただ、それゆえ少し怖い。

人生に活かせと励まされる。これはプレッシャーだ。「タダで良いよ。そのかわり俺の努力無駄にするな」と言っているようなものだ。でも、個人的には好印象w

以上だが、ここから結論。タダほど怖いものはない、ということだ。俺はとにかくそう思いたいし、そういいたい。またみんなもそう思うべきだ。世の中は性悪説で動いている。これが正確かどうかは問題ではない。そう考えて人生行動したほうがいいのだ。

俺は、多くの本を読んでいる以上、本をタダで読める社会に感謝しなければならないと同時にその対価を払わなければならない。今、俺は見えない借金をしているのだ。それをいずれ返済しなければならない。著者へ、社会へ、親へ。

最近、そんなプレッシャばかりだ。

だが、返すつもりはある。

ある意味破産しそうだがw

店長が早くも交代し、俺にとって今日はその一日目だった。だがその新店長の姿はなく、結局今日はその次にその店を取り仕切っているベテランのバイトの人と残る二人で店を切り盛りした。店長がどんな人なのかすごく気になった。ベテランの人いわく「前の店長と感じは一緒だよ。全然気難しい人じゃない」といってたが。(前の店長はすごく気さくで若者オーラの出ているすごく接しやすい人だった。)

話がとぶが、正直この交代はあまりうれしくなかった。まだ3回しか働いてない俺は、覚えるべき仕事の3分の1の過程も満たないで代わられたことになるわけだ。これはすごく気分が悪い。店長が良いか悪いかは実際にあってみればわかることなのでそこは若干の不安だけに留まっているが、教わっている途中っていうのだけは腑に落ちない。研修生に一通り教えてから交代するべきだと思うのだ。もちろん、社員の入れ替わりの激しいチェーン店なのでそこはある程度しかたのないものではある。だが、それならそれで1週間、いや、せいぜい2週間前にはそのことを教えてほしかった。それなら俺にも「じゃあ今のうちにたくさん入っておきます」といろいろ調整がつけられたわけだから。ただ、実は前の店長を責めることはできない。というのも、その店長自身も三日前に交代を本部からつげられたのだ。だからこの愚痴は本部に向けたものとしておく。


いきなりですか!


今日のバイトは今までで一番暇だった。だが、覚えることの多い日でもあった。教わっていたタメの人から近々やめると密かに告げられ「その前に君にほとんど覚えてもらわないとやめるにやめれない」という理由で徹底的に教え込まれたのだ。それで結果的には全オーダーの8割はこなしたと思う。まぁ、とはいっても数字のインパクトほどたいしたことはないが。さっきも言ったとおり暇だったわけで、オーダー自体が非常に少なかったのだ。今までの1回の覚える量が1だったとしたら今回は1.5くらいだろう。

具体的に言うと、今つとめるキッチンには揚げ場、焼き場、刺し場、厨房という4つの役割があり、俺はまず過去の3回でその揚げ場をほぼこなすことが出来るようになった。それで今回も揚げ場がメインでそれに焼き場のレシピを少し見て雰囲気をつかむ事が加わるだけだった、本来ならば。

しかし、実際はなんと揚げ場、焼き場、差し場、厨房をいきなり全部やらされたのだ。社員がいないのをいいことに、どんどん俺に教え込もうとしたわけだ。別に嫌だったわけではない。でも、そう来ましたかとはおもったw。今考えれば、オーダーが少なくて本当に良かったと思う。これが多かったら何もかが中途半端になってただろう。時間があり、一品一品をゆっくり教えてもらいながらだったのでキッチンの役割全部をこなせたのだ。今日は運が良かったのかもしれない。


慣れが最大の目標


バイトは終始こんな感じだったわけだが、雰囲気に若干違和感があった。店長がいなかったのが主な要因だ。バイトの人だけでやったのは初めてだった。そのおかげでベテランのいわば店長の代理人にあたる人と初めてまともに話せたので結果的には良かった。

それにしてもこのバイトは、結構気さくな人が多くてやりやすいなぁ、と今日改めてそう思った。まだ全従業員の3分の1くらいにしか会ってないから断言はできないのだが、シフト表を見る限りその3分の1の彼らがほとんど主力を務めているようなのでそう思っておいてもさほど問題はないだろう。またバイト自体に関しても時給は高いし、自分で決められるシフト制。いくらでも融通が利くのが良い。場所が遠いのが玉にキズだが、そのおかげで移動中に音楽を存分に楽しめるというプラス思考は俺の頭の中でなんの異議を唱えられることなくあり続けている。とりあえずは満足しているのだ。


慣れない日本のしきたり


ただ、不満がないわけではない。たとえば退勤事情が厄介なのだ。今回も前回もそうだったのだが、退勤は勤務時間を過ぎたとしても責任者の声なしでは出来ない。つまり帰るには、ひたすら「あがっても良いよ」という声を待ち続けなければならないのだ。仕事がひと段落ついたからといって帰れるわけではないのだ。これはおかしいだろう。

「それ、責任者が言うことだから」
これは俺が勤務時間が過ぎたことに気づき、あがってもいいか何気なくバイトの人に聞いたときに言われたことだ。正直、ぞっとした。聞くことさえ許されないらしい。別に帰ると言ってる訳ではなく、帰宅の了承を尋ねたいだけだ。だが、それさえご法度らしいのだ。これはいくらなんでも常軌を逸していないか。

いや、違う。それはむしろ俺のほうかもしれない。日本ではそういう変な気遣いが伝統的に行われてたりする。たとえば、多くの企業では「有給休暇とっていいですか」「帰ってもいいですか」なんていえる社員はあまりいないだろう(厳密には、社員は言わないのではなく言えないのだ。もっといえば会社がそうはいわせないのだ。)。それと同じだ。他に働いている人がいるのに、自分だけ休むのは迷惑だ、露骨に帰ると主張するのはデリカシーがないし失礼だ。そんな感じだろう。それが日本のしきたりであり、また美徳ともいわれているのだ。だが、俺はそんなしきたりが嫌いだ。こういうことが起こるたびにストレスがたまるのだ。
なぜ我慢しなければならないのだろう。俺は納得できない。

それでもアルバイトはまだいい。不満ならとっととやめればいいのだから。しかし、会社はそうはいかないだろう。組織のそれは非常に根深い。

まぁ、大げさに書きすぎたかもしれない。バイトのほうも実際許容できる範囲だ。それでもいいたかったのは自分は自分のために働いているということを改めて認識しておきたかったからかもしれない。ちなみにその後、やっぱり責任者に聞いてみた。「帰っていいよ」との返答。もう即答だった。そんなもんだろう。聞きたい事は極力聞くべきなのだ。

ニュースがまちがった日―高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年
林 直哉 (著), 松本美須々ヶ丘高校放送部 (著)

なんかネットでこんな本を見つけた。内容はタイトル通りの大方が想像できるものだろうが、高校生が書いたというところにちょっとした興味がある。高校放送部がメディアを取材するという内容らしい。みつけたとき「うわ、これは斬新だ」と思ってしまった。というわけで買いたいのだが、これ恐ろしく高い。税込みで1,890円だ。ペーパーバックスが二冊も買えてしまう値段だ。無料で読みたくても、運が悪く近くの図書館も中央図書館も貸し出し中だから読めない。まぁ本来、面白い限りは何円だしても読みたいたちだが立ち読みなしでは悩んでしまう。まぁ給料日までに考えておこう。

この本、内容も知らずして語るのは無責任かもしれないが、こういうことをさせてくれる学校というのは個人的に評価できる。というより、最近の学校は世間の目ばかりを気にして臆病になりすぎている。それが最悪の形では、規則というもので徹底的に生徒を縛って健全で自主的な行動に制限をかけている。まさに俺が行ってた学校なんかがそうだ。

はっきりいってそんな学校に価値はない。俺はそれだけでもその学校を選択肢からはずすし、もし俺に子供がいたとしたらそんな学校には絶対行かせない。学校は考える力を養う場所であり、世間を知る場所であり、人脈を広げる場所である。これらすべては自主的に行うものだ。誰かに強制されるものではない。それゆえに学校という人格形成に大きな影響を与えるところが閉鎖的で受け身な行動しかできなくさせてるのは本質的に間違っている。それでは勉強も嫌いになるし夢も希望も持てなくなるだろう。学校のための学校なんてあってはならない。

良いものと悪いもの

閉鎖的な学校は、外の意見をまったく取り入れないにもかかわらず世間の目を異常に気にするという大きな矛盾を抱えている。運営陣の絶対潰れないという安心と怠慢、そして彼ら自身の社会的地位への執着がこのような滅茶苦茶な体質を生んだのだろう。当然、学生のことなどまったく考えていない。これでは愛校心など芽生えるはずもない

一方で、いい学校は内外問わずあらゆる人に親しまれているという確信的傾向がある。このような学校はたいてい学生や世間の意見を聞きながら運営していたりする。かくして、学生も活気があり学校の評価をあげている。そしていうまでもなく、多くの学生が愛校心をもっている。

同じ学校でも性質は雲泥の差だ。怠慢と努力。束縛と自由。政府と民間・・・これはちがうか。でもおそろしく似ている。

学校とは何か

勉強は自主的にするもの。そう、自主性。やはり学校においてもこの自主性というのが大きなキーワードになってくると俺は思う。たとえば、小学校ではとことん遊び、中学校では興味のあるもの見つけ、高校ではそれを追求する。大学は必要に応じてさらなる追求のため利用するなどする。年齢や段階に応じた自主的な学びをするのだ。

しかし、そのためには学校側にそのキッカケや環境づくりが提供されている必要がある。とりわけ若い(幼い)学生の自主的な活動は学校の協力なしでは良いものにならない場合が多い。協力なしではどうなるか。おそらく、何も出来ないだろう。彼らはわからないことがわからない。成長途上ゆえに最低限の思考や基準さえ持っていないのだ。だから「野球をやりたい」と思ってもルールの重要性はおろか、バットの振り方やボールの投げ方さえわからないのだ。

それでは育つはずがない。この場合、学校は野球のことを教えてあげるべきだ。具体的には、体育の教師が教えてあげればいい。「体育に野球のカリキュラムはない」というのであれば親が教えてあげればいい。(そんな教師がいないことを望むが。)まず、ルールブックを提供する。もし理解できない箇所があればわかりやすく教えてあげる。ボールの投げ方、バットの振り方は実地で監督する。また、試合に勝つためにはチームの団結と目標の設定が必要など、戦略や練習方法が有効であることを伝授したりする。ここまで教えれば十分野球ができるようになるだろう。そうなれば後は好きにやらせても問題ない。彼らはもしかするとこの後これを機に野球部に入るかもしれないし、クラブ野球チームに所属してプロを夢見るかもしれない。そうなれば学校も大きな役割を果たしたことになる。

多くの学校でそのようなことができればもうそれだけでいい社会だろう。野球という例は教育という観点からして適さないように思うかもしれないが、ありとあらゆる物事には多かれ少なかれ理屈があり、どれをとってもそこに学びがある。だから十分成長できるだろう。足りない部分は普通教科から補ってもらえばいい。(ただ、そのためには当然興味のもてる授業をする必要がある。無味乾燥な文の目立つ教科書が主体の授業ではよっぽど教師の教え方がうまくない限り退屈するだけだ(特に小学生)。日本の文化であるマンガを取り入れて読ませるなど、教師に頼りきるのではなく、教科書(教本)の工夫も必要だ。)

可愛い子には旅をさせろ

とはいえ、自主性にもそれなりの危険は存在するだろう。特に小中学校などは学生も人間的に未熟だから自主性を促せば過ちがおきることは避けられない。だが、それでも俺は好きにさせればいいと思う。なぜなら俺は、人は間違いから学ぶことの方が多いと思っているからだ。その過ちがおきてしまったのなら本人に考えさせ、程度に応じて教師や親が「なぜそれがいけないのか」を生徒の立場に立って理解させて、それでも判らない時はまた適切にしつけをする。それでいいのだ。最初からとがめる必要などない。(最近は問題を起こす幼児が多いが、これは親の子供への無関心とそれによるしつけの放棄が原因だ。その場合たいてい親自身もしつけられてないからたちが悪い。(ここまでくると社会的救済が必要かもしれない)いずれにしても親に原因がある。ここで子供の自主性を問題視するのはお門違いだ。)


ここまでほとんど学校に対して書いてきたので最後に真の主役について書いておきたい。学校をよくするためには外の意見も積極的に取り入れることが重要だとさっきいったが、これは言い換えれば、いい学校を築くためには世間も積極的に教育にかかわっていく必要があるということだ。多くの方は「教育なんて過去のもの」と思ってはいないだろうか。文部科学省や学校関係者のやることだと思い込んでいないだろうか。もしそうであるならば、そのなにもしないという行動は政府のそれとなんら変わりないことに気づくべきだ。学力低下はとまらない。多くの方々が関心を持たない限り負の循環はとまらない。マイナスから生まれるのはやはりマイナスなのだ。

この問題、もう来る所まできている。そろそろ新陳代謝の時期ではないか。

実体のない大雨

なことはない。天気予報では大雨との予報だったが実際はその逆、晴天だった。結局夕方からはまた曇り始めていつ雨が降ってもおかしくない状態に戻ってしまったが、むしろ今はどんどん降ってくれたほうがうれしいかもしれない。水不足が心配なのだ。まぁ、そういいつつも明日はバイトがあるので夕方にはやんでほしいのだがw

最近、日記が思うように捗らない。書きたいことは山ほどあるが、それをうまく文章にできないのだ。無理に書こうとするとどうしても抽象的なものになってしまう。これでは書いている意味がないだろう。文才はないがはっきりと自分の思うことを書いていきたい。なんとかならないだろうか。

どうであれもっと本を読む必要はありそうだ。そういえば最近、メディア論ばかり読んでるがどの本も必ずといっていいほどメディアリテラシーの重要性が説かれている。俺も身につけたいとは思うがこういうのは大学へ入ってからのほうがいいのだろうか。市場にもいろいろ出回っているしネットでもそういう系統は結構あるのだが。

ドラゴン桜

電車男見逃してしまった。その代わりに今日はドラゴン桜を見た。原作を読んだことあるものから言わせてもらえば阿部寛は桜木にぴったり合ってた。最近ドラマ、というよりテレビに無縁だったが少し見る機会が増えそう。

ドラマの影響力ってバカみたいに凄いが今回は何人くらい影響受けるのだろう。つまり東大志願者。こちらも少し楽しみだ。

そういえばこのドラマ見ていたとき親が「昨日2ch電車男はめちゃ面白かったぞ」といわれた。・・・あなた知ってましたか。電車男を。そして2chを。

そんなご時世かもしれないw