ニュースがまちがった日―高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年
林 直哉 (著), 松本美須々ヶ丘高校放送部 (著)

なんかネットでこんな本を見つけた。内容はタイトル通りの大方が想像できるものだろうが、高校生が書いたというところにちょっとした興味がある。高校放送部がメディアを取材するという内容らしい。みつけたとき「うわ、これは斬新だ」と思ってしまった。というわけで買いたいのだが、これ恐ろしく高い。税込みで1,890円だ。ペーパーバックスが二冊も買えてしまう値段だ。無料で読みたくても、運が悪く近くの図書館も中央図書館も貸し出し中だから読めない。まぁ本来、面白い限りは何円だしても読みたいたちだが立ち読みなしでは悩んでしまう。まぁ給料日までに考えておこう。

この本、内容も知らずして語るのは無責任かもしれないが、こういうことをさせてくれる学校というのは個人的に評価できる。というより、最近の学校は世間の目ばかりを気にして臆病になりすぎている。それが最悪の形では、規則というもので徹底的に生徒を縛って健全で自主的な行動に制限をかけている。まさに俺が行ってた学校なんかがそうだ。

はっきりいってそんな学校に価値はない。俺はそれだけでもその学校を選択肢からはずすし、もし俺に子供がいたとしたらそんな学校には絶対行かせない。学校は考える力を養う場所であり、世間を知る場所であり、人脈を広げる場所である。これらすべては自主的に行うものだ。誰かに強制されるものではない。それゆえに学校という人格形成に大きな影響を与えるところが閉鎖的で受け身な行動しかできなくさせてるのは本質的に間違っている。それでは勉強も嫌いになるし夢も希望も持てなくなるだろう。学校のための学校なんてあってはならない。

良いものと悪いもの

閉鎖的な学校は、外の意見をまったく取り入れないにもかかわらず世間の目を異常に気にするという大きな矛盾を抱えている。運営陣の絶対潰れないという安心と怠慢、そして彼ら自身の社会的地位への執着がこのような滅茶苦茶な体質を生んだのだろう。当然、学生のことなどまったく考えていない。これでは愛校心など芽生えるはずもない

一方で、いい学校は内外問わずあらゆる人に親しまれているという確信的傾向がある。このような学校はたいてい学生や世間の意見を聞きながら運営していたりする。かくして、学生も活気があり学校の評価をあげている。そしていうまでもなく、多くの学生が愛校心をもっている。

同じ学校でも性質は雲泥の差だ。怠慢と努力。束縛と自由。政府と民間・・・これはちがうか。でもおそろしく似ている。

学校とは何か

勉強は自主的にするもの。そう、自主性。やはり学校においてもこの自主性というのが大きなキーワードになってくると俺は思う。たとえば、小学校ではとことん遊び、中学校では興味のあるもの見つけ、高校ではそれを追求する。大学は必要に応じてさらなる追求のため利用するなどする。年齢や段階に応じた自主的な学びをするのだ。

しかし、そのためには学校側にそのキッカケや環境づくりが提供されている必要がある。とりわけ若い(幼い)学生の自主的な活動は学校の協力なしでは良いものにならない場合が多い。協力なしではどうなるか。おそらく、何も出来ないだろう。彼らはわからないことがわからない。成長途上ゆえに最低限の思考や基準さえ持っていないのだ。だから「野球をやりたい」と思ってもルールの重要性はおろか、バットの振り方やボールの投げ方さえわからないのだ。

それでは育つはずがない。この場合、学校は野球のことを教えてあげるべきだ。具体的には、体育の教師が教えてあげればいい。「体育に野球のカリキュラムはない」というのであれば親が教えてあげればいい。(そんな教師がいないことを望むが。)まず、ルールブックを提供する。もし理解できない箇所があればわかりやすく教えてあげる。ボールの投げ方、バットの振り方は実地で監督する。また、試合に勝つためにはチームの団結と目標の設定が必要など、戦略や練習方法が有効であることを伝授したりする。ここまで教えれば十分野球ができるようになるだろう。そうなれば後は好きにやらせても問題ない。彼らはもしかするとこの後これを機に野球部に入るかもしれないし、クラブ野球チームに所属してプロを夢見るかもしれない。そうなれば学校も大きな役割を果たしたことになる。

多くの学校でそのようなことができればもうそれだけでいい社会だろう。野球という例は教育という観点からして適さないように思うかもしれないが、ありとあらゆる物事には多かれ少なかれ理屈があり、どれをとってもそこに学びがある。だから十分成長できるだろう。足りない部分は普通教科から補ってもらえばいい。(ただ、そのためには当然興味のもてる授業をする必要がある。無味乾燥な文の目立つ教科書が主体の授業ではよっぽど教師の教え方がうまくない限り退屈するだけだ(特に小学生)。日本の文化であるマンガを取り入れて読ませるなど、教師に頼りきるのではなく、教科書(教本)の工夫も必要だ。)

可愛い子には旅をさせろ

とはいえ、自主性にもそれなりの危険は存在するだろう。特に小中学校などは学生も人間的に未熟だから自主性を促せば過ちがおきることは避けられない。だが、それでも俺は好きにさせればいいと思う。なぜなら俺は、人は間違いから学ぶことの方が多いと思っているからだ。その過ちがおきてしまったのなら本人に考えさせ、程度に応じて教師や親が「なぜそれがいけないのか」を生徒の立場に立って理解させて、それでも判らない時はまた適切にしつけをする。それでいいのだ。最初からとがめる必要などない。(最近は問題を起こす幼児が多いが、これは親の子供への無関心とそれによるしつけの放棄が原因だ。その場合たいてい親自身もしつけられてないからたちが悪い。(ここまでくると社会的救済が必要かもしれない)いずれにしても親に原因がある。ここで子供の自主性を問題視するのはお門違いだ。)


ここまでほとんど学校に対して書いてきたので最後に真の主役について書いておきたい。学校をよくするためには外の意見も積極的に取り入れることが重要だとさっきいったが、これは言い換えれば、いい学校を築くためには世間も積極的に教育にかかわっていく必要があるということだ。多くの方は「教育なんて過去のもの」と思ってはいないだろうか。文部科学省や学校関係者のやることだと思い込んでいないだろうか。もしそうであるならば、そのなにもしないという行動は政府のそれとなんら変わりないことに気づくべきだ。学力低下はとまらない。多くの方々が関心を持たない限り負の循環はとまらない。マイナスから生まれるのはやはりマイナスなのだ。

この問題、もう来る所まできている。そろそろ新陳代謝の時期ではないか。