夢を隠す人々

「日本人には夢や目標がないのか」
海外留学が増えている昨今、留学生を迎え入れる当地の学生、学校関係者からこのようなことがよく言われているそうだ。中国、インドなどの留学生は大きな目標や夢を持っている一方、なぜか多くの日本人にはそういうものがないらしい。

しかし、日本人はこれを聞いたら「まぁそうだろうな」と思うのではないか。俺はそう思った一人だ。すごく納得できるものがある。夢というのは所詮夢であって消えていく運命だと考えているのだ。そう、さすがに子供のころには夢があった。思い出してみると、アイドルになりたい、プロ野球選手になりたいというなんらかの夢があったのだ。しかし、それらはいつの間にか何事もなかったかのように人々は一切語らなくなる。そして夢を忘れ、なんとなく行った大学を卒業し、一般企業に就職してあたりさわりのない人生を歩んでいるのだ。

やはり多くの日本人には夢がないのだ。しかも、それを強く自覚しているのだ。「え?夢なんてないよ」「青春だな」。夢はいつの日か過去の美しい思い出に変わるのだ。

しかし夢を捨てたとき、その代わりに、多くの人は「大人」という呼称を手に入れる。世間から認められその仲間入りを果たすのだ。多少乱暴ではあるが日本ではこのようなケースがごく一般的なのだ。

世間の存在
日本には「世間」という言葉が存在する。「世間のためにがんばりなさい」「世間体」。その意味は自分の身近にいる人たちのことをまとめてそう呼ぶことだったり、自分のいる学校や会社のことだったり、国民全員のことだったり、と幅広いがその本当の意味とは何なのだろう。「世間」について研究する第一人者の阿部謹也氏によると、世間とは

個を持たない共同体

のことだそうだ。この言葉は日本独自のもので明治初頭に欧米文化を導入し近代化した時から言われるようになった(現代の意味のこと。昔はsocietyにあたる社会という言葉がなかったため、その代わりに世間という言葉が使われていた)。同時期に生まれた言葉「和魂洋才」。これは、日本の精神を忘れることなく西洋の文化を取り入れること。すなわち、共同の精神を忘れず個の制度を取り入れようという矛盾した言葉なのだ。しかし人々はその事にほとんど気づくことなく個人主義の到来を歓迎した。民主主義になり、学校へ行き、洋服を着る。これが個人主義なのだと信じて疑わなかったのだ。このとき個人主義の本質を知っていたのは知識人だけであり彼らはこの矛盾から「世間」の存在を認識し、嘆いた。だが、結局このダブルスタンダードを受け入れざるを得なかった。

この矛盾、またはこの精神は日本に今だ強く伝統的に残っているのだ。集団から抜け出た存在は許さないという「出る杭は打たれる」。他者との軋轢をさけ、平和でさえあればいいという「事なかれ主義」。これらの言葉がその現実を如実に物語っているだろう。逆に、「能ある鷹は爪を隠す」など本当の実力者は決して個を出さない事を意味する正当化された言葉もある。子供でさえも少し世間を知ると学校のテストがよくても「勉強してないよ」と言うようになる。

個、すなわち人格を積極的に否定していくのが世間なのだ。(ちなみに、その埋め合わせとして積極的に肯定する「建前」が生まれた)

微力な動き

ここから「世間のない社会」とは、人格を尊重しあい、集団ありきでなく個人ありきの積極的な行動ができる社会のことだといえる。だが、もちろん、今はそのような社会ではない。一人で物事を進めようとすることは愚かな事だと考え、そのような人を色眼鏡で見たり、場合によっては抹殺しようとさえする。まだ個人に力はないと考えているのだ。もちろん、現代の情報化社会の恩恵により、さまざまな考えを聞く機会が得られ、おかしな現象などをより自覚できるようになり、つよく個を意識するようになってきてはいると思う。だが、精神に長く根付いてしまったものはそんな簡単に拭えるものではない。結局今、多くの方も、かの明治時代の知識人と同じように嘆いているのだ。

だが、最近おかしな現象が起こっていることに気づく。たとえば若者を中心としたファッションの多様化だ。これまでは流行のものばかりが中心であったが、この頃「個性」を意識したファッションが目立つようになってきた。モラルの是非にまで飛び火するくらい奇抜なファッションもあったりする。そして、もうひとつはフリーターの増加。彼らは自分の夢のために就職をせず、比較的自由な時間を作れるフリーターを選ぶ。時に安泰の象徴でもある「学歴」さえ捨てて積極的に生きようとしている。

俺はこれらについて、どうしても彼らが個性を確立するために個性のアピールをし、また同時に「世間の否定」をしていると思わずにはいられない。もちろん、「ただ目先の利益におぼれてるだけだ」「まじめに働く意欲がないからだ」という意見があることは承知だし、実際そういうフリーターも多いとは思う。だが、積極的に生きようとしている人もそれと同じくらい多いはずだ。貧富の拡大、国の1000兆の借金、終身雇用の崩壊など人々の将来不安は留まるところを知らない。考えれば考えるほど悲観的になるばかりなのだ。なら、どうせ不安を拭えないのなら、せめて型にはまるのはやめて自分の生きたいように生きようじゃないか。と、このような考えが出てくるのは当然である。

考えてみると、悲劇的なこの社会情勢のなか、人格を持ちきれていないことを、ある程度自覚しつつ世間で生きているという状態は、日本の歴史上初めての経験ではないだろうか。戦後はじめはまだまだ情報にも乏しく共同意識がまだ強く残っていたし、高度経済成長期からバブルの時も、この驚異的な成長が無限に続くという展望をみんなが持った自信あふれる時期で、個人という概念が入り込む余地はなかった(もっともこのときばかりはその必要がなかった。共同意識、実直さが無敵の武器だったのだ。日本の精神がもっとも発揮された時だろう。就職の自由も約束されていた、とにかくすごい時代である)。だとすると近い将来大きな変化がやってくる可能性があるかもしれない。つまり、日本が明治以来の矛盾に今やっと立ち向かうための原点にたったような気がするのだ。厳密には、まだまだ微力なため到達していないかもしれないが限りなく原点に近いと思う。だが、問題はここからだ。

今だに根強い世間の力

「個性」を意識する人々が少しずつ増えてきた。それは完全な個人主義をつかむ為の第一歩であるように思う。個人的にはとてもすばらしいことだと考えている。しかし、だからといって手放しで喜べるわけではない。というのは、まだ多くの者が「世間」を知らないと思われるからだ。「世間の否定」をして積極的にいきていこうとする者にとって「世間」とはある種の敵である。彼らは世間から外れた生き方をするわけであり、そのせいでもしかすると世間から制裁を受けるかもしれないのだ。「世間」を知らないということは防具を持たずに戦いに挑むことに等しい。とてもそんな状態で生きていけるほど世間や世の中は甘くないだろう。だから「個」以前に「世間」についてよく知りあらゆるリスクを想定して、もしも最悪な事態が起こった場合でもそれを受け入れることができるかや、予防策があるかなどを考えることが大切だ。ここまで考えて初めてそれが防具となるのだ。これらを作り上げるのは知恵や見識だ。ちなみに武器は「個」であり、それは人によって知恵だったり技術、経験だったりする。つまり確実にいえることは「考える事、考える力」が何よりも重要であるということだ。


ますます悪くなる社会

実力主義の到来。数年前にこの言葉が大流行した。賛否両論あるなか、俺は個人の力が認められる時代だと賛成した。しかし、それはやはり虚構に過ぎなかった。企業はお得意の大学の生徒を中心にコネで雇用したり、世襲形式をやめることはなかった。今だ学歴社会が続いているのだ。

「高卒はみんな変わり者」「大学院生、理系は使いづらい」「専門学生は要領が悪い」「英検1級取得者はプライドが高い」。企業は扱いやすさ、すなわち自我のない者を最優先に、怠惰に実績のわかっている学校から大量に雇うことにより、個人の努力が報われない社会を作っている。もしかすると、一人にあらゆる仕事のポストにつかせる事を前提とするため多角的な視野、思考力を持った扱いやすい人、つまり高学歴な人間しか雇えないという内情があるのかもしれない。

だが、それが問題なのだ。技術は日に日に高度になっている。専門性が高度化すればするほどそのシステムにより企業自らの首を絞める可能性がある。専門分野を一から教えなければならないわけだ。そうなると人材育成、長期雇用が不可欠でありそれによる人件費は馬鹿にならないだろう。その負担を企業は背負えるのだろうか。

それよりもポストを限定してその専門知識をもつものを雇ったほうがリスクも少なく健全ではないだろうか。多角的思考力を持つ人も企業には必要不可欠だ。しかし専門分野までまかせる必要はないはずだ。日本企業はなぜか専門屋より何でも屋がすきな傾向があるがそれは究極には不可能である。両者がバランスよくいて、それぞれが協力しあったほうが合理的なはずだ。

国レベルの意識改革を!

「個」の芽生え。会社への誠意は今後「個」の意識と共に消えていくかもしれない。そうなれば今の状態では高度経済成長の時のような強固な団結力は期待できない。取り戻すためには、あらゆるものを抜本的に変えていかなければならないのだ。企業はまず今の時代にあった雇用システムに変える必要がある。それには国主導の改革が必要だろう。国はこれとともに明治初頭に忘れてきた精神的な「個」の確立を国民全員に促す必要がある。「世間」という伝統を消し去ることは至極難しいだと思うが何百年かかろうとも今から変える努力しなければならない。
個人が積極的に生きれる社会。夢の持てる社会。これが本来の社会のあるべき姿なのだから。

ええ、バイトやめました。俺がやっていた居酒屋はフリーター御用達の稼げるところだったんだけど、それゆえに必要以上に入れられることが多かったのでやめることにした。

いきさつは割愛するとして、これで俺はまた"学び"に時間を費やせるんだと思うとうれしさでいっぱいだ。やっぱり俺は勉強から楽しみを見出すことでしか生きられないのかもしれない。というとバイトがいかにくだらないものかを言っている様だがバイトにもそれなりの学びはある。今回にしても、人間関係、厨房の料理、要領などまだまだ未熟な俺にとってすごく勉強になったことは多い。だが、それも2ヶ月程度やると大方の事はわかっくる。するとあとは、ある種の単純労働になるのだ。オーダーを受けて料理を作り、皿を洗うというように。こうなると成長することが好きな俺にはお金のためというより時間つぶしのためのバイトに感じすごく退屈してしまう。バイトをしに行く時もいやな気分になってしまうのだ。でももうそんなこと思うこともないからいいが。

そんな退屈なことを恐れない能力がこの先生きていくためには必要なのかもしれない。そういういみで俺はまだまだ未熟だと思う。だけど、それをいそいで得る必要はないだろう。今はまだ、いろんな本を読んで見識を深める時期だと考えている。まだ土台もできていないときにバイトに明け暮れると、最悪その世界でしか生きられなくなる。フリーターを全うする。こんな感じか。まあ、そんな人がどれくらいいるのかは正直わからないが”フリーター観”から抜け出せなくなる人はかなり多い気がする。「○○すれば金がもらえる」「時給○○円」。こんな受身な仕事でいいのだろうか。個人的価値観によるものではある

俺は嫌だが。

久々に書く

もう書かなくなって1ヶ月近くが経ってしまった。実は、このブランクの間いろいろあってこのブログの体裁上すごく書きにくかった関係から時間はあったのに書かないという行動をしてしまっていた。少ないながらもこんな利己的な日記を読んでくれる人がいるのに、俺はなんか申し訳ないことをしたなぁと思う。ただ、それでも書かなかったわけだから客観的に見て弁解の余地はないだろう。

今後もこのブログは使って行きたいと思う。これまで書いてきたこと、そんな感じの内容をまただらだらと書いていけたらなぁと思っている。

いろいろ書きたくてなんにもかけないでいる現状だが、二浪を歩んでいる今、この今をなるべく赤裸々に書いていけたらと思う。そしてそれが有意義なものへと運んでくれたらと思う。

というわけで、ペースは落ちるかもしれないけどまたブログ再開します!

本当は書きたい

ブログ、久しぶりに書く気がする。これは不本意だ。バイトをやり始めてからネットをやる回数が激減したというのがある。生活パターンが変わってしまったわけだ。ただ、バイトもそんなにやっているわけではない。週2週3程度で1回7時間だ。

ネットの時間が減ったのはある意味無駄な利用をしていたりしたのでさほど気にしてはいないが、このブログを書く回数が減ってしまったのは少し反省しなければならない。このブログは日記でもあり日々思う戯言でもあり、つまり自分の思うがままに書いている。テーマこそ「受験」ではあるがあんまりその意味をなしていない気もするwまた自由気ままなだけに人が読むには多少読みづらさもありそうだ。ここらへんは、ネットで公開している以上、今後改善していかなければならないことではあるが、当本人はそれ以前に書く事自身に意義を感じているというのが正直なところだ。しかし、今はその書くことさえおろそかになっているのだ。

日々思うこと。そのすべてをなるだけ事細かに文字に起こしたいわけだ。そして、最終目標としてそれを当たり前にこなせるようになりたいのだ。そのためにはまず、ひとまず、書こうと思う。

明日から三日間はまたバイトなのだがw

What shall we do today? It seems a shame to waste a Saturday Afternoon in April,when it is just beginning to get warm,by staying inside. It isn't hot yet ,and you still need a jacket ,but you don't to wear a sweater under the jacket anymore. Winter is over and your body feels light and good because of the beginning of spring. Nature is waking up after a long sleep. The world is beginning to look green again instead of that tiremore winter grey and soon it will be time for the cherry to blossom.

「英語の構文150」に載っているある小説の一節だ。簡単な英語だが上手な文章で頭にすんなり入ってくる。読んでいて心地よい文だ。

受験英語だとどうしても政治、経済など社会的な事柄を主題にした文が多いが、そういった文はタメにはなるがあまり面白くはない。だから、そればかりを読んでいると飽きてきて勉強がダレてくる。そこで、上のような読みやすく、かつ楽しめる文を読むのだ。それによって勉強意欲の維持が保たれるのだ。

俺はつかみどころが少ない無味乾燥な文を長時間読み続けられるほど出来た人間じゃない。また、「なぜ英語を勉強するのか」などと動機付けしたり、それに伴う勉強方法じゃないと勉強効率が下がる。「面白さ」を求めずに勉強をすることが出来ない人間なのだ。

もちろん、このような勉強が受験においてとても効率の悪いやり方だということは重々承知しているが、これを変えようとは思わない。自分にとっては効率のいい方法なのだ。

写真日記 -後編-

いよいよ後編だ。前回、明日書く、といっておいて2日もずれてしまった。バイトが予想以上に疲れたのだ。今日もこの後深夜からある。これで連日バイトはひとまず終わる。その前に、この万博日記もすべて終わらしてしまおう。粗雑なところがあるがご了承願いたい。


陶器はよく、焼き物・瀬戸物といわれるがそれで有名な瀬戸市には海上の森という森林地帯がある。ここは名古屋という都市、または市街地の隣にあり車でも中心部から30分程度でつくのだが、これほど市街地化された場所の近くに大自然が残っているのは世界的に極めて珍しいそうだ。(だからこそ、住民はこの大自然を守ろうとこの自然を破壊する万博には強く反対していたわけだ。ちなみに、その成果として、愛知青少年公園という昔からあった県内でも桁外れにでかい公園一帯をメイン会場にすることに変更して、森林の破壊は必要最小限に留まる事になった)

万博では、この貴重な大自然を満喫してもらおうと多くの森林体験ゾーンが設けられている。その一つがこの写真の千年の森だ。


木に巣箱がつけられている


子供たちの環境保護を訴えるメッセージが巣箱に書かれている。

この他としては、万博人気に一役かった「サツキとメイの家」などがある。


グローバルループのいたるところにたくさんのベンチが設けられている。


とにかく疲れるのだ。たしか1周するのに3キロ弱あったと思う。歩いて2,3時間もすればベンチの重要性に気付くはずだ。

幸い、いたるところにあるため混雑時によるベンチの不足もまずなさそうだ。


参加国の国旗。120カ国


街路灯。


階段。各パピリオンをつなぐ場所にある。造りは写真のとおり木造。この万博では道にあたるものはほとんど木で作られている。(土台はさすがに鉄筋でつくられている)

この木材について詳しくはわからないが、建築、木工製品の際に残った木材を使っている印象を受けた。少なくとも「新しい」という感じはしなかった。


赤十字館。中は時間がなくて入れなかった。


カナダ館。映像を駆使した内容だったがはっきり言って何がしたいのかわからなかった。期待していただけに残念だ。

話は変わるが、カナダはワーキングホリデーを利用できる国だ。一度バンクーバーからトロントくらいの距離を観光してみたい。結構、現実的な夢でもある。


また面白いもの発見。長さ40cmを誇るソフトクリームのお出ましだ。ただ先端の角を引き伸ばしただけじゃないか、とは口が避けてもいえない。

こういうネタは面白いからいい。しかし600円は高すぎる。他にもピザが1000円とかラーメン1000円とか本当に高い。これにはほとんどの場合「ドリンク付き」と書かれ、それならそんな高くないか、と思わせてるところがあるがお金のない俺にはそれでも安くは感じなかった。

ただ、ディズニーランドや、USJよりはだいぶましではある。(比較するべきではないかもしれないが)


アマゾン館。展覧会のような内容となっている。


このようなかんじ。


適当にぶらついていても必ずどこかでイベントが行われている。写真は海外の大道芸人。ジャグリングをやっていた。

他にも、前編で紹介したスマップを歌うギターコンビのストリートライブやアコーディオンのメロディーに乗せて軟体を披露する芸などいろいろあった。

こういうのはすごくいい。「また万博行こうかな」と思わせる要素の一つに入ると思う。パビリオンが楽しいかはおいておくとしても、小さなイベントは表には出ないが十分楽しめるものだ。俺は万博に行く前はパビリオンにばかり気をとられていたが、行ってみて、このことに気付いてから万博の印象が変った。


アメリカ館。俺の目の前に外国人カップル。

彼ら待ち時間の間ずっとじゃれあってた。キスもしていた。(もう、困るわーw)


ベンジャミン・フランクリンアメリカの礎を築いた偉人。アメリカ館は彼の人生をコンセプトに構成されている。


銅像


なんか、ブッシュのメッセージが壁に掲載されていたが人の流れに負けて読むことができなかった。すまないブッシュ。


アメリカ館のメインブース。6つの画面でリアル体験ができる。内容はベンジャミンフランクリンが見る「今」と「未来」。天国からベンジャミンが登場して、未来である「現代」にやってくる。

「私も今の時代に生まれたかったよ」と嘆くことによって観客に今の技術進歩のすごさを啓蒙する内容。

さすがは映画の本場アメリカ。どこのパピリオンも映像エンターテイメントが多いなか「見せる(魅せる)技術」はアメリカがトップクラス。見る価値あり


メインブースを出ると最後におまけとして衛星画像が展示されている。これは月のクレーター


火星の表面


出口手前に、なんとGMの次世代車、燃料電池自動車が展示されている。名前はAUTOnomy(オートノミー

燃料電池車は自動車産業において環境保護を訴えることのできる究極の自動車だ。二酸化炭素排出ゼロ、公害ほぼゼロ。これが普及すれば新しい技術だけにパソコン業界のマイクロソフトのような独占市場の形成もありえる。それだけに覇権争いは想像を絶するほどにすさまじい。

日本の自動車メーカー、個人的にはマツダトヨタにはがんばってほしい。


休憩。午後3時半くらい。人工芝の設けられた休憩兼イベントスペースだ。俺は脚の疲れをできるだけとるため、大の字にして、といっても消極的に、横になった。曇り空こそいい気はしないが寝転がって時間をすごすのはすごく気持ちがいい。もうねよっかなぁ、と何度も思ったくらいだ。しかし、俺の一番重要な目的が果たせてなかったので思いとどまった。(本当は寝る余裕はあったのだがその余裕を通り越して巡回員に起こされるくらい寝てしまう自信(?)があったのだ。)


コンサート会場だ。楽器、機材等のセッティングがされているのがわかる


天井。


開演!

構成パートは、左からパーカッション、ベース、キーボード(兼ハーモニカ)ギター×2、コーラス(ボーカル)×2。ギターとパーカッションのみの落ち着いた曲から始まる。


パコ・デ・ルシア。なんだろう、この余裕は。



ベーシスト。5弦ベースを使っていた。音のノリはよかったのだがミスが目立っていたのが惜しい。


リズム感あるブラッシング奏法がホール全体に響き渡る。なんて心地いいんだろう。観客はリズム、メロディーをただなぞるだけでいい。何の不安もなく、聞き入ることができる。この安定感、尋常じゃない。


左、ハーモニカソロ。各パートが自己紹介の代わりにソロを弾いている。


これは最後のメンバー一礼。つまり閉演だ。この前に一回メンバーは舞台から降りたが10分以上たってもやまないアンコールに、ついに再登場。アンコールは今まで経験してきた中でも少し違う感じがした。外国人観客がいるからだと思われる。だが、そんな観客全体のノリは自分にとってすごく新鮮でその後の演奏にもいい影響を受けた。1年ぶりくらいにテンションがあがった。

今日来て良かった事を確信した。


こいつかっこよすぎる、と思った。この人、もう60間近の人だ。おじいちゃんと呼ばれ始めるころだ。実際の彼の孫(いるかどうかはわからない)にはそう呼ばれているのだろうか。

この、歳に踊らされない”かっこよさ”は誰もが惚れるかっこよさだろう。俺にも分けてほしい。



閉演直後の会場の様子。3000人の観客は大方満足して帰って言った様子。俺も満足


さて、帰路に向かう。会場はグローバルループの真ん中、いわばマラソンでいう折り返し地点なのでゲートに戻るには1キロ強の距離がある。また歩くのだ。


途中で人だかりが見えてくる。なんだろうと思ってみんなが見る池の方へ視線を移すと、なにやら光のナイトショーなるものがそれらしきBGMとともに始まっていた。これも自分にとっては意外だった。万博はこんなこともやっているようだ。


結局、俺は写真に収めるだけの時間堪能した。コンサート目的だったし、一人なのでこちらのほうには気分が乗らなかったのだ。


万博の夜景。結構きれいだ。

万博の感想としては、思っていた以上に楽しめた。開幕時はメディア各局、各誌、そこらじゅうで特集が組まれて映像によるヴァーチャル万博散歩や雑誌による万博情報などが否が応でも頭に入ってきた。そのときの第一印象は決していいものではなった。「コンセプトがあいまいでなんか中途半端だな」という感じだ。しかし、それは自分があまりにも「万博」という固定観念に執着していたせいだったことに実際に行ってから気付いた。

技術の誇示の場としての万博は過去のものだ。これからの万博は「人間の相互理解」をテーマに含めて国際理解の貢献に一役買う存在にしていくべきだというのは俺の最終的な意見だ。今回の愛知万博は計画不足によりところどころで粗が見えたのは否めないが、逆にこれにより見えてきたものも多い。それを次の上海万博、それ以降の万博に活かしていければもっと面白く有意義なものになるはずだ。これからの万博も、いや、これからの万博こそ大いに期待したい。